開校当時の様子を振り返って

 私たちが大阪からここ穂高に越してきて約1年がたった頃(1988年)、田川博さんという方が我が家を訪ねてこられました。田川さんも穂高へ移住されてまだそれほど経っておらず、たまたま近所にラグビー好きの家族がいると聞かれてお見えになったのだったと思います。
 我が家は元々父と弟は自分でラグビーをプレーしていましたが、運動音痴で一番ラグビーなどに感心のなかったこの私までもが前年1987年に開催された第一回W杯の影響ですっかりラグビーにはまり、田川さんが来られた時点では家族の誰よりも熱心なラグビーファンと化していました。
 田川さんはラグビーの元日本代表選手で、母校の慶応大学でラグビー部の監督も務められた方です。すでにかなりお年を召しておられましたが、長身でおしゃれで颯爽とした紳士でいらっしゃいました。初対面でしたが、<ラグビー>という共通項で意気投合し、「ぜひ、この安曇野で、ラグビースクールをやりましょう!」という話が自然に出てきたのでした。
 そんなわけで1989年(平成元年)4月、安曇野ラグビースクールが誕生しました。
設立時のスタッフは、父が代表、顧問に田川博さん、コーチはご子息の田川理貴さんという顔ぶれでした。メンバーも僅かだったので、1年目の”クリスマス会”は我が家の居間で開きました。(今振り返ると結構アットホームでよかったな〜と懐かしい感じです。人数が少ない分ケーキもリッチだったし(*^^)v何と!一人一人にかよこお姉さん手作り!の名前刺繍入り布製ラグビーボールのプレゼントというのもありました。)
 その後、田川理貴さんがお仕事のご事情でコーチを退かれ、正式なコーチが不在の時もありましたが、とは言え、コーチが「ゼロ」になってしまう事はなく、どこからかこの小さなラグビースクールをの事を耳にされた”ラグビー好き”の人達が一人二人と・・とやってきて手伝ってくれるのでした。当時そうして手伝ってくださった何人かの方達も参加されて社会人チームの『安曇野ラグビー倶楽部』が創立され、現在もスクールの指導や大会の運営などでお世話になっています。
 
 田川博さんは数年前に亡くなられました。『HIROSHI』と刺繍の入ったあの布製ラグビーボールを、「納棺の際に入れさせてもらいましたよ」と、御子息の田川理貴さんが話してくださいました。 (合掌)

スクールの代表は、父から若い細川康二さんにバトンタッチ。”かよこお姉さん”だったはずの私も今や”かよこおばさんに”なってしまいましたが相変わらず(というかますます)ラグビー大好きです!です。  (いまでも”かよこお姉さん”ですよ。編集者注)
 スクールの成績は年ごとに弱かったり強かったり普通だったりといろいろでしたが、毎年新しい仲間と出会いながら(そして成長したメンバーを送り出しながら)、とにかく楽しく活動させてもらってきました。なかなか十分なことはできませんが、これからも”かよこおばあさん”になるまで、ずっとスクールの皆と一緒にいさせてもらいたいと思っています。よろしくお願いいたします。
                                     2004年6月
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